夜の海に立ち…

思いついた事をとりあえず書いてみる。

私がどれだけユートピアが嫌いかという話

 ジョージ・オーウェルの「1984年」などディストピア小説をいくつか読んだ後に、ディストピアという単語の元になったユートピアについて気になって、トマス・モアの「ユートピア」を読んだことから話は始まる。

 

 この作品は著者のトマス・モアがアントワープで出会ったピータ・ジャイルズからラファエル・ヒスロデイという人物を紹介してもらい、ヒスロデイからユートピアの概要や素晴らしさを聞き、それを本に纏める形式で進んでいく。

 

 「ユートピア」という言葉は日本語では「理想郷」等と訳されたりするが、ヒスロデイの語るユートピアはどうしても「偽善」や「独善」の臭いがして嫌悪感を覚える。話の中には犯罪に対する刑罰のバランスの適正化を求めるような話や不正に私腹を肥やす資本家と資本主義への批判のように現代でも頷ける部分があるのは確か。しかし古典だと承知しても、どうにもユートピア人のやり口は素晴らしいとも見習いたいとも思えない。そこには他国と他民族を見下した選民思想と傲慢さが垣間見えてくる。

 

 ユートピア人は「戦争をで得た名誉ほど不名誉なものはない」(第二巻・八章)と語られるが、一方で人口増加の調整は「人は住んでいるが荒れ果てた土地の多い、近くの陸地に送り(中略)これと反対にもし土地の住民が彼らとともに住むことを拒み、彼らの法律に従うことを拒むようなことがあれば、彼らはその土地を自らのものとして定め、その領域からその住民をすべておいはらってしまう。もしそのとき、住民が反抗し暴動を起こせば、彼らは直ちに住民に対して戦いを開く。」(第二巻・五章)という。

 

 荒地とはいえ、自分達の都合でよそ様の土地を開拓しだし、現地民が反対すれば最終的に戦争を始める事も辞さない。しかも本国の人口が減れば外地は捨て去ってしまう。自分達は絶対に正しいと過信するばかりか、普段は戦争など野獣的行為とみなして厭戦的な態度を出すなど、偽善的で嘘つきの二枚舌であり他者を見下し征服せんとする帝国主義の考え方である。

 

 他にも動物の屠殺は奴隷にやらせるし、他国どうしの戦争に介入すればまず先に傭兵を金で雇い、次は戦争当事国や友邦諸国を使う。ここにユートピア人の「自分達の手は汚さない」という独善的で狡い考えが見てとれるし、傭兵を前線ですり潰す事についても「この極悪非道な連中をその汚い、悪臭ふんぷんたる巣窟とともに、この世界からきれいに除いて大いに人類の為に貢献しようとする信念があるからである」(第二巻・第八章)と思い上がった傲慢さが見えてくる。汚れ仕事を他人に押し付け、自分達は澄まし顔で幸福や徳や信仰を語るのだから、反吐が出るほどの下衆っぷりである。

 

 感情的には褒められたものではないユートピアであるが、一方でうまい社会システムであると認めざるを得ない。ユートピア島の各都市は同じような構造で、国民は皆同じような質素な格好をして、教育を施され、医療も充実していて、ユートピアという群体を維持するベストな状態が常に保たれる。また、自国民には金銀や貨幣を価値の無いものと教育し、貨幣が無くても暮らしが成立する社会システムを作り、自分達には価値が無い貨幣で他国から資材と武力を購入するのだから、それこそ錬金術である。ユートピア人の幸福は自分達より下等と見なした人間を消費することで成り立っている。だから頭のいい彼らは決して人類の平等や自由を謳う事は無い。原点のユートピアからしてなかなかのディストピアっぷりなのは皮肉なものである。

 

 作中のモアはユートピアの風俗や法律の成立には必ずしも合理的と思えないと感じる箇所がたくさんあると述べていて、これを自国へ適用するには期待出来ない部分が多いと語っているところからも、これが本当の理想なのかはモア自身懐疑的に考えている部分があるように見える。結局モアはこのユートピア(どこにもない国)に何を求めていたのだろうか、その真意を紐解くのは難しい。

 

 また、1500年代に書かれたユートピアは数百年後のイギリスの負の側面を予言していたと考えると面白いかもしれない。上記で述べた帝国主義的な要素以外にも、戦争の費用を相手国(敗戦国)に全て負わせる姿勢はベルサイユ体制と似ているし、なるべく戦争に自国の兵を使わない姿勢は日露戦争のような代理戦争をけしかけた様子に似ていると思う。

 

 そんなこんなで社会や思想の歴史を教養として学ぶ分には読む意義が十分にある「ユートピア」ではあったが、物語としては下手なディストピアものよりも胸糞悪いお話で「ユートピア」の名前が入った様々な物事に対する心証が悪くなったというオチがつきました。